感情の風化には二種類あるのかも、というはなし。
- suzu tsukihara
- 2017年11月30日
- 読了時間: 4分
近頃わたし、メダロットのマイブームが来たりロマサガを触ったりしています。
最初は軽くやってただけなんですが、オモシロミを呟きながらやっていたらなんだかどんどん好きになってきて。 勢いあまってGB音源で戦闘曲を耳コピしたりもしてるんで、よろしければご一聴ください。
さて、この二作に限らないんですが、わたし割と好きなもののことを好きって言うようにしてます。で、そうしてるとなんとなく好感に加速がつくような印象があるなー、と思ったのでした。
とはいえ、好きでもないものに対して好き好き言っててもあまり効果が無いので、加算というより乗算なんでしょう。
今日のテーマは「わたしはどうしてこの作品が好きなのだろうか」ってのを言語化することで、好きだという気持ちに実体がついてくるってお話です。
考えているだけの「好き」は実体が無いのですぐに風化して霧散してしまうんだけど、それを言語にすることでため込めるようになる、というか。
後述するけど、べつに万人がこうだとは思いません。
ところで、作品が好きって話に限らずコレは成立しそうな話だな、とも思います。
たとえば夢日記があぶないとされるのも、夢の出来事を言語化すると記憶が実体を持ってしまうからだと思うとなんとなくわかる。
実はわたし六年ほど夢日記書いてるんですが、確かに書くことができた日の夢のことは現実の記憶のように思い返すことができます。全然霧散していない。
ただ、これと全く逆の考え方として「好きと言ってしまうことで感情が陳腐に思えてしまう(からあまり言いたくない)」という話を聞いたことがあるな、とふと。リアルの知人からも何度か聞いたことがあるし、創作の劇中でもちょこちょこ耳にする理屈です。わたしとは全然違う考え方なんですが、わからなくもない。
気持ちの段階ならばその質は無限なのだけど言語化した時点でカタに嵌ってしまう、と言われれば納得できるような気がします。創作なんかでも同じことが言えるような……。
だから気持ちのままで持っていたいんだ、と言われればなるほどと思います。(ただ、わたしそのまま持ってると霧散させちゃうので同じことはできないなーと思うんですが)
こう思うと、どうも感情を言語化すると、「霧散せずに固定する(言語化しなければ霧散する)」パターンと「陳腐化して霧散してしまう(言語にせず固定できる)」パターンがあるようです。
これは個人差があるようで、わたしは後者が全くできません。 しかし一般的には後者の方が多いし、両方を使い分けられる人も少なくないだろうな、というのがなんとなくの印象です。
ともかく感情を流したり溜めたりするのに言語化が噛むこと多そう、というのでまず一区切り。
と、ここで話を発展させます。 ……感情って「好き」だけじゃないよね、と。
ツイッター見てればお察しの方も多そうですし、ここのブログもそうなんですが、わたしはネガティブな気持ちをほとんど公開していません。
まあ、突き詰めると愚痴のたぐい。
もちろんわたしも一応人間なので、怒ったり悲しんだりすることが無いわけじゃありません。聖人君子でも何でもないです。
単に、いやな気持ちを言語化するのが物凄く苦手なんです。言い換えると、愚痴を言語化すると自分にダメージが入る。
それがわかっているので、ネットのみならず、ほとんど外に出さないようにしてます。だから愚痴を言う人はなぜそんな苦しいことをするのだろう……と思ってたんですが、ここまでの話を踏まえるとちょっと違った見方ができるような。
わたしは感情を言語化すると実体を持たせてしまい、それ以外の処理がほとんどできません。そして、愚痴を言える人は「言語化することで感情を陳腐にする」という処理を行っていると思うとしっくりくる。
考えてみれば妖怪伝承などもそうですが、「わけのわからないものに実体(名前や姿)を与えて克服する」というのはあまり珍しいことではありません。が、同時に「実体を持ったために余計に怖く感じるようになる」というケースもありそうで。わたしはどうも後者だったんだろうな、と思うのです。
何を当然のことを、と思う方もけっこういるのかもしれませんが、長年理解できなかったもののヒントをつかめたようで嬉しいのですよ。
今夜のおはなしはここまで。
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