こんばんは、望月です。ジツに二週間ぶり。
あんまり書きたいことが思い浮かばずに一週開けてしまったけれど、そういえば先日ちょっと考えてたことがあったなと思い出して思考を整理してました。しばらくおつきあいください。
昔のゲームって、ずいぶん制限がありましたよね。
音楽は同時に三音しか鳴らなかったし、グラフィック情報はデフォルメが利きに利いたドット絵だし、メッセージは物凄く端的で短いし、ヘタするとひらがなとカタカナだけだったりするし。
しかし、だからこそ、プレイヤーはそこから想像を膨らませることができました。――――膨らませなきゃいけなかった、ともいえるかもしれませんが。
ごくシンプルな最低限の情報から、雄大な世界を想像し、キャラクターたちの顔も声も想像し、言外の情報から物語を紡ごうとした。だからこそ、たとえ画面がチープであってもそこで大きな物語を感じることができたんじゃないかな、と。
それは、必ずしも制作者の思惑とは重ならなかったかもしれません。
プレイヤーごとに、想像したキャラクターの顔も声も違ったことなんてザラでしょう。物語や性格の理解が違っていたかもしれません。 それでも、プレイヤーはひとことふたことしか喋らない16ビットのキャラクターを愛し、カクカクのドットで描かれた世界に雄大さを感じていたわけです。
画面ではこう見えるけど、作中世界ではこういうことが起きてるんだろう、と。
無論、ゲーム製作者がそういった意図で情報量を絞っていたという例ばかりではないと思います。物理的に絞らなきゃいけなかったからギリギリまで絞ってた、というだけなのが本当のところでしょう。もっと余裕があるならもっと入れたかったクリエイターの方が多かったかもしれません。
いわば100あるオモシロサを50だけ選んで詰め、あと50はプレイヤーで補完してねという状況です。
この補完された50はきっと、製作者の考えていたものとは一致しないでしょう。いいえ、50の量を補完してくれる保証すらないんです。10や20だけ補完するにとどまり、「この作品は60程度のオモシロサだったなあ」と捉えられることだって無数にあったでしょう。
しかし、ある意味では「少ないメモリで大きな世界を表現できた」とも言えるかもしれません。 人によっては、製作者が考えてもいなかったほどに世界を想像したプレイヤーがいたでしょう。50に圧縮された作品をプレイして、300も1000もオモシロサを感じたプレイヤーがいたでしょう。それは良いことだった、と一旦言いたいし、わたしもそういうプレイヤーでありたいなと思ってます。
でね、最近のゲームは物凄く情報量が増えたわけです。
音楽も豪華になったし、グラフィックはアニメ映画のごとくグリグリ動くようになったし、メッセージも小説やアニメと比べても遜色の無いようなきちんとした文章になりました。
誤解してほしくありませんが、わたしコレを否定するつもりはないんです。これ、製作者としては望んでいた進化だと思うし、「100のオモシロサを100詰められるようになった」のは喜ばしいことです。これは絶対に良いことだと思う。
でも、何もかも詰められるようになった結果、プレイヤーが勝手に膨らませる余地は随分減りました。
キャラクターに限ってみても、顔はくっきりと描かれ、セリフは物凄く多く、ときにはボイスなんかもついちゃったりして。想像や解釈の余地は大きく減っています。
これね、小説と漫画、アニメの違いに凄く似てると思うんですよ。
そう、レトロゲームの情報量の少なさって、小説とよく似ていると思います。「想像を膨らませることができる、そして膨らませなければいけない」という点で。 小説ではビジュアルが挿絵くらいしかないけれど、漫画になればビジュアルの想像の余地はほとんどなくなるし、アニメになると動きや声が「想像しなくてもそこにある」状態になる。
繰り返すけれど、これは表現としては良いことだと思います。「受容者にオモシロサの一端を担ってもらわないといけない」のは必ずしも良いとは言えません。
――――けど、そういう楽しみ方をしたいな、と思う受容者もいる。わたしもです。
ゲームがどんどん豪華になっていくのは大いに歓迎したいし、製作者の伝えたいことがそのまま伝わってくるのは良いことだと拍手を送りつつ、「50に圧縮したからあとはきみが解凍して補完してくれ」って言わんばかりのゲームもまだまだやりたいなー、と思う。
さいわい、わたしはまだまだレトロゲームに詳しいわけでは無いし、バーチャルコンソールなどで触れられるような有名作すらほとんど触れたことが無いため、個人的にはまだまだ遊ぶものには困りません。 でも、ゲームというものとして、「100詰めきらない作風」のものは今後もどんどん出てほしいなと思うんです。わりと個人制作規模のゲームだとこういうのが多いようなので嬉しいところ。
今夜はこんなおはなしでした。
蛇足だけど、この「見る人に補完してもらう」ってテーマで望月が書いた小説があるのでご紹介しときます。
『ある旅人の話』。こちらで読めます。
流浪の旅人が、訪れた先でさまざまな事件に出会う、いわゆる股旅物。各話、2000字程度のショートショート作品です。
特徴として、セリフが全くなく、描写もほとんど最低限しかないので、主役の旅人がどんな人物なのか、性別も年齢も全然わからないという一風変わった作品になってます。
物語そのものも読む人によって結末が違って読めるものが多く、趣向が好きな人は好きなんじゃないかな、と期待しています。
今夜の記事読んで「望月とスタンスが近いな」と思った方いたら、ぜひ一読ください。ちょっと宣伝でした。