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「書き手の気持ち」を問われ、「作者の気持ち」と受け止めた子供がいるのかもしれない


 暑さでへばってる望月です。

 三行で書くと、

・作者の気持ちを小説の一部分から読み取らせる問題なんて実在するとは思いがたい ・小説に不慣れな児童は、しばしば一人称小説の語り手/書き手を作者と混同しがちだ ・問われたのは作者ではなく、「書き手」の気持ちという可能性がありそう

 というのが本稿で言いたいことのだいたい全てです。

 国語で「作者の気持ちを答えなさい」という問題があった、という言説があります。

 個人の発信のみならず、小説や漫画作品などでもしばしば見られる表現ですね。

 ときどき出てくるこの話は、だいたい「国語はワケがわからない質問をしてきた」という人が主張している一方、「そんな問題は記憶に無い」ということから前者をデマを流す人間として白い目で見る人も見かけます。

 デマかどうか、というとこはさておいて、望月の立場は後者寄りです。

 本当にそんなワケのわからない質問があったならば、わたしも国語教育への不信感がいっぱいになっていたはずであり、ちょっと実在は信じられません。

 そんな問題は存在した記憶が無いし、また、「地域や時代の差でわたしの視野に存在しなかっただけ」「単にわたしが忘れているだけ」で存在していた、という可能性も限りなく低いという考えです。ほとんど都市伝説に近いものとすら捉えています。

 確かに、国語は一定の採点基準が存在しないため、質の低い設問や採点者に当たってしまうと不条理な場面があるのは確かでしょう。

 しかし、それにしても「作者の気持ちを答えよ」は不条理さがずば抜けています。世界は広いため、本当にそんな不条理を問うような教育者が実在することは否定しきれませんが、いくらなんでも報告数が多すぎる。

 

 しかし、だからといってこれだけ共有されている話の大多数が悪意のあるデマか、と言い切るのも少々無理がある話に思えます。

 もちろん、実際に有名になった都市伝説の中には「カブトムシの電池」などの例もあります。(ご存知ない方はググってください)  ただ、あの例は「『カブトムシの電池』を語る中高年の人物」への批判という形で語られることが多く、「カブトムシの電池」を信じる人物そのものは観測されることがほとんどありません。  むしろ「『カブトムシの電池』を語る中高年の人物」そのものが都市伝説の存在とも言えるかもしれません。「魚が切り身で泳いでいる」なども同様です。

 これ単品を追うのも面白いのですが、ひとまず話を本筋に戻しましょうか。

「作者の気持ちを答えなさい」が存在したことを主張する人間は、先の例とは異なり、確かに実在しています。それもひとりふたりでは無い、一定数の大規模な人間が今でも存在を信じている。  全く存在しなかったものと考えるのはちょっと無理がある。火のない所に煙は立ちません。

 ……ただし、煙は必ずしも火からのみ立つわけではありません。

 前置き長かったけれど、わたしの今回書きたいことは

「作者の気持ちを答えなさい」などという問題は決して存在しなかったが、「作者の気持ちを答えなさい」と受け止めかねない問題は実在したんじゃないだろうか。

ってことです。

 

 そもそも、この問いが成立しない、と考える理由から。

 小説でわかりにくければ、べつの創作媒体で考えてみましょう。 「このコマのときの漫画家の気持ち」とか「このシーンのときの監督の気持ち」を答えられますか?

 まずね、どのタイミングの作者の気持ちなんだ。  プロット作って他と調整して、場合によってはあとから修正したりもしているはずの「作品のその部分」を作ったときの作者の気持ちなんて、作品から読み取れるはずはありません。

 これを問題として成立させるなら、

問A「このときの登場人物の気持ちを答えなさい」 問B「このシーンを描写した作者の意図を答えなさい」

 のどちらかになるのではないでしょうか。

 問Aは正しく国語の管轄です。  たとえば「彼はそっぽを向いた」という文章があったとして、「彼」がどんな気持ちでそっぽを向いたかで文意は全然変わってきます。照れてそっぽを向いたシーンなのに、相手の醜さに顔を背けたシーンと受け止めてしまっては場面の読解がおかしなことになってしまいますよね。

“登場人物の気持ち”を想像する訓練は、文章の意味を理解する上で必要なことです。

 こちらは現在でもごく当たり前に現代文の問題として採用されているはずです。

※もちろん、出題者によっては悪文も存在するため、「登場人物の気持ちを答えよ」が必ずしも妥当な問いばかりだとは言いきれません。  どうとでも取れるもの、描写されていないものなども多数存在し、登場人物の気持ちを問われても作家自身もわからなかったという例は枚挙にいとまがありません。

 それでも、あくまで個別の設問の良し悪しであり、「登場人物の気持ちを答えさせること」という大枠は妥当だと考えます。少なくとも、「作者の気持ちを答えさせること」に比べれば出題意図がはっきりしています。

 問Bは創作論に近いものです。

 ここで彼女を登場させたのはその場で喋っていた人物と対比させるためだとか、後の伏線であるとか、「どんな効果を狙っているのか」という意図を考えるのは、創作をするつもりならば参考になることが多いでしょう。  しかし、あまり一般教育でやる必要は無いと感じます。少なくともわたしは当たった記憶がありません。

 ただ、ひょっとしたら時代・地域によっては問われた可能性もあります。

 

 ここで思い出したのは、小説を読み慣れていない児童に国語の文章題を解かせたとき、一定の人数が「作者と視点人物を同一視する」という間違い方をすることです。

 例えるなら、『シャーロック・ホームズ』のワトソンの行動について答えるべき場面で、「コナン・ドイルは」という主語で文章を始めてしまうような子、そこまで珍しくない頻度で遭遇します。『こころ』の語り手を夏目漱石と言ったり、『人間失格』の語り手を太宰治と言ったりする子供は、年齢層が下がるほど多く見られます。

 一人称小説、つまり「作中のキャラクターがこの文章を書いている形式」という構造を理解できていないわけです。

 また、エラリー・クイーンのように作中人物と作者が同じ名前である作品も少なくありません。これが混乱に拍車をかける場合もあります。誰もが人生の初期から一人称小説と私小説と随筆を区別できるようになるというわけではありません。

 ということを踏まえると、例えば「ワトソンの気持ちを問う問題文」を読んで「ドイルの気持ちを問われた」と受け止めて混乱する子供は存在してもおかしくありません。

「このときの『私』の気持ちを答えなさい」

 でも十分にあり得ますが、

「このときの書き手の気持ちを答えなさい」

 という問題文も存在し得ると思います。問題文としてはかなり悪文ですが。

 書き手(であるキャラクター)と作者がイコールでない、とわかっていれば問題は無いものの、混同している子供にとっては「作者の気持ちを問われた」と感じるでしょう。

 世にはびこる「作者の気持ちを問われた」という言説は、かなりの割合でこのケースの誤解ではないか、とわたしは踏んでいます。

 それが人生の初期であればあるほど、誤解の可能性は高まります。そして、間違ったときに「認識のどこが間違っているのか?」という適切な指導を受けられないと、誤解をしたまま国語教育への不信感を持つこともありえるな、と。

 たとえ後々に「書き手≠作者」が理解できるようになったとしても、理解できなかったときに国語で混乱した記憶が無くなるわけではありません。

 当時の問題文などが残っていれば間違いに気づけるかもしれませんが、さもなければ「幼少期に作者の気持ちを問われた。国語の文章題はわけがわからない」という苦手意識を植え付けられてしまう可能性もあります。

 

 まあ、全然現在の問題集などを確認したわけじゃないのであくまで推測ですし、これが全ての原因とも限らないでしょう。  しかし可能性としては十分にあり得そうな誤読であり、もしそれがきっかけで国語に間違った偏見を持ってしまった方がいたとしたらもったいないことだな、というお話でした。

※追記

 頂いたコメントで、大きく二つの仮説を頂きました。

 一つ目は、「かつては実在したが後の教育改革で消滅した」というもの。教育とて日々進歩するものであり、最初から最適な問題文だけでできていたわけではないのでは、という意見です。

 これには同意します。中高年の方が「作者の気持ち」を問われていた可能性は否定できません。

 しかし、「その改革よりも前に教育を受けた世代にしか通用しない理屈である」とも言えます。わたしがある程度の年齢であることを考えると、少なくともいわゆる「若者」世代はこの理屈では説明がつきません。

 二つ目は、「論説文の『筆者の考え』を問われた記憶があるのを物語文の作者と勘違いしているケースもあるのでは」という説です。こちらは世代を問わず、かなり説得力がある説だと思います。

 言うまでもなく、論説文においては「この部分で筆者はどのような考えを伝えたいのか?」という問題は成立します。しかし、具体例を伴わないまま「作者の考えを聞かれた」という記憶だけが残れば、「物語文の作者の気持ちなどわかるわけがない!」と後になって考えてしまうのは無理もないと言えます。

 以上二つにわたしの仮説。三つのどれが正しいというよりは「どのパターンの人もいるし、併発している人もいるかもしれない」というのがわたしの考えです。とはいえ、少なくとも現代においては存在そのものがかなり疑わしく思えます。

 もしも現代の国語で「物語文において作者の考えを問われた」問題文の実物を手に入れた場合、公開をお勧めします。

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望月すすき。​

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